序文



我々は常に何かを認知しています。
感情や感覚、それらは永遠の眠りにつくまで続き、故に、認知の消滅とは永遠の眠りについた時、脳の機能が停止した時とも言えましょう。

さて、人生を歩んでいると、時折「ゴール」や「終わり」という言葉を耳にします。
プロジェクトのゴール、物語の終わり。
様々ございますが、しかし、それは本当に終わりなのでしょうか?
我々が知ることの出来る物語がそこでとまっているだけで、実際見ていたものは物語の中で表現されたものだけ。つまりは一部しか見ていない。人生自体に終わりはあれど、その後その人物が与える影響などのことを考えると、果たして物語に終わりというのは存在するのでしょうか?


例え話をしましょう。
人は非日常を求めます。
日常ではないからこそ、それを求める。
愛とは言葉にせずとも感じられるものですし、身近なものです。思春期になって愛を直接に表すことができなくなった子供に、親が毎日お弁当を作る、という話はまさにその典型でしょう。
このように愛とは家族愛や友愛、常日頃から感じやすいものでありますがしかし、恋愛というのもはそう多く感じられるものではございません。
恋愛とは、表すものです。
好きな人が出来た、それを身体や言葉を巧みに操って表現をしていく。
やがて恋の熱が落ち着き始めると、それは愛になる。
指輪を渡す頃には、もう恋の心を表現せずとも愛が伝わるようになっているのです。
恋はここで一度落ち着きを見せますが、愛は最初から、ずっとそこに存在していました。
愛があって恋がある。愛を表現したいという気持ちと、熱が強い状態のことを恋というのですから、当然のことです。


しかし、全てが愛に変わるかと言ったらそうではありません。例えば指輪を渡す前に恋の熱が落ち着き、やがて愛を超える別の感情が生まれ始めたらどうでしょうか。
きっと恋の熱が冷めると同時に、愛もまたゆっくりと変容し、他のものに成り代わる。
この変化を「愛が終わった」と言って良いのでしょうか?
愛はそこに存在した。そしてそれが成り代わる。
元を辿ればその感情には愛が含まれている訳でして、いくら恋の熱が消えたといっても、所詮は愛から進展した感情にすぎないのです。


察しの良い方はおわかりでしょう。
どのような恋も、どのような愛も、決して終わりはしない。
形を変えて、認知の消滅までずっと残っているのです。
愛でさえも終わりがないのならば、どうして人間の感情によって生み出されただけの物語に終わりがありましょうか。
日本における著作物の定義とは、「思想又は感情を創作的に表現し、文学、学術、芸術及び美術の範囲に含まれるもの」でございます。
愛とは感情です。
物語とは、その感情を創作的に表現したものなのです。
となれば、その元となった感情の一つである愛に終わりがないのなら、当然物語にも終わりがないと、そう言えはしないでしょうか。



永遠に終わることのない物語。
その一部を切り取ったものが、ここに存在する。
皆さまにおかれましては、物語の切り取られた一部の、その更に先を、想像してみていただけたらと思う次第です。



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